教えのやさしい解説

大白法 701号
 
貪瞋癡の三毒(とんじんちのさんどく)
 貪瞋癡の三毒とは、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚癡(ぐち)の三煩悩(さんぼんのう)のことで、その三煩悩が衆生の善の心を最(もっと)も害する根元の煩悩であることから三毒といいます。
 日蓮大聖人は『観心(かんじんの)本尊抄』に、
「瞋(いか)るは地獄、貪(むさぼ)るは餓鬼、癡(おろ)かは畜生」(御書 六四七n)
と仰せのように、貪瞋癡の三毒は、地獄・餓鬼・畜生の三悪道の境界(きょうがい)を表しています。
 つまり、貪欲とは、自分の欲(よく)するものに執着(しゅうちゃく)して貪る心、餓鬼の生命をいいます。瞋恚とは、自分の心に違(ちが)うものを瞋る心をいいます。瞋りは他人に苦(く)を与(あた)えるので、それが業因(ごういん)となって来世(らいせ)には自らが地獄の報(むく)いを受けます。愚癡とは、道理に迷(まよ)う愚(おろ)かな心、本能的に動く畜生の生命をいいます。

 病(やまい)や不幸の根本原因は貪瞋癡の三毒

 御隠尊(ごいんそん)日顕上人猊下は、
「仏法においては『身(からだ)は心の従(じゅう)』と教えており、身体(からだ)は心の善悪(ぜんなく)に従ってあらゆる変化が生(しょう)じ、そこに種々の病気や不幸が現れるのであって、その病気の元(もと)は過去・現在・未来の三世(さんぜ)にわたる心の因縁(いんねん)果報(かほう)に存(そん)するのであります」(大白法 六〇九号)
と御指南されています。すなわち、一切衆生の種々の病や不幸は、すべて心の善悪により現れてくるのです。
 では、その悪の果報を招(まね)く悪心(あくしん)とはいったい何でしょうか。それは、法華経の『五百弟子(でし)受記品(じゅきほん)』に、
「衆(しゅ)に三毒(さんどく)有り」(法華経 二九六n)
とあり、『大智度論(だいちどろん)』には、
「三毒は一切(いっさい)煩悩の根本たり」
また、
「根本の四病(しびょう)とは貪瞋癡等分(とうぶん)なり」
とあり、さらに『摩訶止観(まかしかん)』に、
「四大(しだい)は是(こ)れ身(み)の病(やまい)、三毒は是れ心の病」(摩詞止観弘決会本)
と示され、また大聖人は『始聞仏乗義(しもんぶつじょうぎ)』に、
「此(こ)の苦果(くか)の依身(えしん)は其(そ)の根本を探(さぐ)り見れば貪・瞋・癡の三毒より出(い)でたるなり」 (御書 一二〇八n)
と仰せのように、多くの煩悩の中でも、最も悪(あ)しきものが貪瞋癡の三毒であり、この三毒より見思惑(けんじわく)・塵沙惑(じんじゃわく)・無明惑(むみょうわく)の八万四千(しせん)の煩悩が派生(はせい)するのです。

 邪宗教によって三毒は強盛(ごうじょう)となる

『曽谷(そや)殿御返事』に、
「邪法をあいし、正法をにくむ、三毒がうじゃうなり(中略)飢渇(けかち)は大貪(だいとん)よりをこり、やくびゃうはぐちよりをこり、合戦(かっせん)は瞋恚(しんに)よりをこる。今(いま)日本国の人々四十九億九万四千八百二十八人の男女、人々ことなれども同じく一つの三毒なり」(同 一三八六n)
と仰せのように、三毒は邪宗教によって悪循環(あくじゅんかん)し、増大(ぞうだい)していきます。つまり、正法(しょうぼう)に違背(いはい)し、邪宗教を信仰することで、三毒は単(たん)に個人の不幸、迷いの根元となるだけではなく、貪りは飢渇(けかち)、瞋恚は戦争、愚癡は疫病(えきびょう)を起こし、日本一国、さらには全世界の人々と国土の不幸の根元、悪の根元となるのです。

 貪瞋癡の三毒を三徳と転ずる方途(ほうと)

 では、これら貪瞋癡の三毒は、いかなる法によって退治(たいじ)することができるのでしょうか。『減劫(げんこう)御書』に、
「末代(まつだい)濁世(じょくせ)の心の貪欲・瞋恚・愚癡のかしこさは、いかなる賢人(けんじん)聖人(しょうにん)も治(おさ)めがたき事なり。其(そ)の故(ゆえ)は貪欲をば仏不浄観(ふじょうかん)の薬をもて治(なお)し、瞋恚をば慈悲観(じひかん)をもて治し、愚癡をば十二因縁観(じゅうにいんねんかん)をもてこそ治し給(たま)ふ」(同 九二四n)
とあるように、釈尊は上根(じょうこん)上機(じょうき)の衆生に対し、貪欲は不浄を観ずることにより抑(おさ)え、瞋恚は慈悲をもって滅(めっ)し、愚癡は十二因縁観をもって治す修行法を説いています。
 しかし、同抄に、
「いまは此の法門をとひて、人をを(落)として貪欲・瞋恚・愚癡をますなり。譬へば火をば水をもってけ(消)す、悪をば善をもって打つ。しかるにかへりて水より出(い)でぬる火をば、水をかくればあぶらになりて、いよいよ大火となるなり」(同 九二五n)
と示されているように、末法の本未有善(ほんみうぜん)の荒凡夫(あらぼんぶ)は、釈尊の脱益(だつやく)仏法を信仰しても、貪瞋癡の三毒を消滅しないばかりか、かえって貪瞋癡の三毒は強盛となり、全(まった)く意味をなさないのです。
 御法主日如(にちにょ)上人猊下は、
「この貪・瞋・癡の三毒を三徳に転じていく、それにはただ一つ、大聖人様の仏法による以外にないのであります。煩悩即(そく)菩提ということが言われますけれども、まさにそれと同じことになるのであります」(大白法 六八七号)
と御指南されています。
 すなわち、末法の衆生が貪瞋癡の三毒を退治するには、大聖人が『当体義抄(とうたいぎしょう)』に、
「正直に方便を捨(す)て但(ただ)法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳と転じて、三観(さんがん)・三諦(さんたい)(そく)一心(いっしん)に顕(あら)はれ、其(そ)の人の所住の処(ところ)は常寂光土(じょうじゃっこうど)なり。能居(のうご)・所居(しょご)、身土(しんど)・色心(しきしん)、倶体倶用(くたいくゆう)の無作三身(むささんじん)、本門寿量の当体蓮華(とうたいれんげ)の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(御書 六九四n)
と仰せのように、大聖人の文底下種(もんていげしゅ)の妙法を受持信行(しんぎょう)するところに、貪瞋癡の三毒は即(そく)三徳と転じ、即身成仏(そくしんじょうぶつ)の本懐(ほんがい)を遂(と)げることができるのです。
 宗門は今日(こんにち)、御法主上人猊下の御指南のもと、「平成二十一年・『立正安国論』正義(しょうぎ)顕揚(けんよう)七百五十年」の佳節(かせつ)における「地涌(じゆ)倍増(ばいぞう)」をめざし、大前進しています。この大事な佳節に当たり、貪瞋癡の毒気(どっけ)に犯(おか)された一切の衆生に、最高最上(さいじょう)の良薬(りょうやく)である大聖人の妙法を服(ふく)さしめるべく、一層、折伏に励むことが大切です。